■母が語るなかつか亮


第1回

 亮は3人兄妹の真ん中、丸々と太ってとにかく健康優良児でした。牛乳大好き人間で水がわりにガブガブ飲み、家族の中で一番大きいのはそのせいでしょうか(ちなみに母は牛乳が大の苦手)。産休明けから、3人とも保育園っ子。通園は4人乗り自転車で亮はいつも前席でした。冬は冷たい風をもろに受け重量オーバーでよくパンクしました。亮は保育園大好き、友だち大好き、動物大好き、でも、けんかの苦手な甘ったれで気持ちの優しい子でした。親が仕事で疲れきった時、あの大きな笑顔で支えてくれたこと、どんなに助かったことやら…。当時の保育園は、行事もたくさんあってその中でも「おとまり保育」は成長のステップでした。施設内での肝試し、カレー作り、先生たちが一生懸命作ってくれたアワ風呂は一番印象的で今でもその話が出ます。親と離れて初めてのおとまりでした。翌日迎えに行った時いきいきと輝き、自信に満ちた顔は親子共々忘れられません。


第2回

 地元伊藤小、冨士見台中を卒業しました。小学校時代は体は大きいけれど気が小さく通信簿の所見に「性格はおだやかで、男女へだたりなく平等に友だちがいます。」とよく書かれていました。夏休みの自由研究の昆虫採集で、兄がカブトムシに注射していると、目を両手で覆って「あー! かわいそう、死んじゃうヨー。」とオイオイ泣くんです。おかしいですね。
 我が家の健康法の一つで中学になるまで一年中半ズボンで過ごしました。

 家族とのお出かけは、共産党の行事が多く、櫻井区議とはその時からの知り合いでした。
 そして、今バトンタッチで亮が区議候補になるなんて夢にも思っていませんでした。
 お正月には恒例の七福神巡りから始まり、花見、赤旗祭りはもちろん、ぶどう狩り、バザーと地域のみなさんにお世話になりました。自然に共産党のイメージがふくらみ、生活の中に浸透していました。また、選挙の投票は、必ず時間を調整して家族揃って出かけるのが中塚家の鉄則でした。これは、大学まで続いたと思います。中学時代になりまして、ブラスバンド部に出会い、部活を立ち上げ、大きなチューバを担当し練習にあけくれました。「チューバは君に吹いてもらうためにあるようなものだ。」と倉庫にあったチューバを手にしてから、進路も吹奏楽が活発な農大一高に入学しました。


第3回

 高校は共学でした。思春期も特に目立たずブラスバンドに明け暮れていました。また、農業実習では初めて履く地下足袋のサイズがなくて大変な思いをしました。白衣も3Lサイズで3割り増しの価格、なんと不経済な体格でしょう。信州の祖母が「亮に畑を用意してあるからいつでもおいで」と喜んでいました。
 農大に入学してすぐに共産党に入党。電話で「お母さんボク共産党に入党したヨ」と報告。兄につづいて迷うことなく18歳で入党しました。嬉しかったです。誇りに思えたときです。それからです。学生自治会活動を始め、民主的な学園をめざし学生運動に燃える日々でした。トレードマークのロングヘアーが懐かしいです。
 この頃、痴呆の祖母が同居し、空いている時間はデイサービスの送迎に協力してもらいました。余裕のない母がイライラしていると「おばあちゃん大丈夫だよ。お母さんちょっと疲れているみたいだね」とやさしく声かけ、祖母の話し相手になってくれました。週3回ヘルパーさんが来るので、ヘルパーさんとも仲良くなり情報交換していました。
 4年に進級するはずが突然、正月にインドネシアに一人旅。「自立するために働きたい。進路を変える。」と言い出しました。親は心臓が止まる思いで何回も話し合い説得しましたが、本人の意思は固く、1年早く社会人となりました。農大中退という言葉は一生残るかもしれませんが、本人を信じ見守ることしかできませんでした。
 アルバイトのつもりで始めたイタリアンコックが本業になり、一人暮らしをしながら夢を抱き、おいしいものへの追求、人としての和、と飲食業に転換していきました。後にも先にも反抗期を迎えたような時期でした。4年間の一人暮らしと過酷なサービス業の生活で骸骨のような体、火傷、モグラのような生活に気が気ではありませんでした。
そこで得た働く青年の夢、追い続ける夢、暖かい仲間、厳しい現実……。
今、新たな進路に向かってがんばって輝いている姿に拍手を送ります